歴史資料展示室について

 本校が創立された1900年(明治33年)から、一世紀以上にわたる本校の歴史を、在校生が「校史教育」として学ぶことを本校の特色の一つとしています。歴史資料展示室は学校保存の資料に加え、設置・運営にわたり、多大な協力をいただいた本校同窓会『真澄会』所蔵の3000点余りの歴史資料の中から選び出されたものが展示されており、多くの人々の思いの上に自分があることを感じ取れるようにとの願いにより設置されました。

入り口に展示してある校章の写真 体育館棟の小ホール2階にあります。
 本校の大きな校章が出迎えてくれます。

 校章は「裏桜」と「鏡」とで構成されています。裏桜は、堅実、謙譲、優雅、清潔を意味し、鏡は自ら照らすという、自省、明快、努力を意味します。

展示資料の中には貴重な写真が多くあります。
 右は初代校舎で1901年(明治3)年~1923(大正12)年まで使用されたものです。
 本県初の県立高等女学校として県下の才媛にふさわしい高度な教育内容を実践し、他県女学校では随意科目とされた英語を必修科目として、外国人教師が教壇に立つなど、その内容の充実ぶりはミッションスクールにも引けをとらないといわれました。他の科目を含めて本校の質の高い教育は世間の評判を呼び、また、その制服は憧れの的でした。
創立当時の校舎の写真

 
大正2年6月9日「新原校長先生送別」と題のついた写真大正2年6月9日「新原校長先生送別」と題のついた写真です。(初代校長新原俊秀)
 本校の校舎の藤色のルーツとなった大きな藤棚が校舎の前に見えます。

1915(大正4)年、二代目の制服が制定されました。(写真左)
 それまでの筒袖は元禄袖に変わり、着物の柄は矢絣(やがすり)模様となって、この矢絣模様に「神奈川県立高女」の「神」「女」「川」を図案化したものがあしらわれました。
 そのころは名実ともに県下一番の女学校で、細かい絣模様の着物と袴の制服は、横浜では誰一人知らぬものはいない名門校のシンボルでした。
二代目の制服の写真

関東大震災後の復興時の校舎 関東大震災で倒壊した初代校舎に代わり、1928(昭和3)年に鉄筋コンクリート3階建ての2代目新校舎が完成しました。大理石の円柱に広い玄関、廊下には彫り模様のタイルが敷き詰められ、階段の手すりには校歌の楽譜が透かし彫りであしらわれる等、随所に工夫を凝らした格調高いものでした。
 この校舎は1990(平成2)年まで60年以上にわたって使用され、その間、第二次大戦中の空襲にも耐え、4つの校名の変化とともに、数多くの生徒が学んだ歴史を持っています。

右の写真は校章の変遷を示したものです。左から神奈川県立高等女学校→神奈川県立横浜第一高等女学校→神奈川県立横浜第一女子高等学校→神奈川県立横浜平沼高等学校、通信制校章です。 校章の変遷

展示室内の様子の写真 横浜平沼高校を中心とした当時の横浜駅周辺の貴重な写真や過去の学校行事の写真などを見ることができます。
 このような資料や展示物は1学年の「校史教育」で有効に活用されています。

1950(昭和25)年に男女共学となりました。男子生徒の入学は本校の新しい伝統をつくる原動力となっていきました。部活動も戦前から顕著な成績をあげていましたが、男子1期生入学とともに誕生した野球部は1952(昭和27)年には県大会で準優勝し(このとき優勝した湘南高校は甲子園で優勝)、1955(昭和30)年創部のラグビー部は1958(昭和33)年から5年連続して関東大会に出場し、「平沼に男子あり」と大きくアピールしました。その他文化部、運動部を問わず、多くの部活動の全国大会や関東大会での活躍は列挙できないほどです。最近では2006年に剣道部がインターハイ県予選で女子団体において優勝しました。
 右の優勝旗は1950年代から1980年代にかけて横浜翠嵐高校との体育対抗戦の名物行事「平翠戦」(翠嵐高校では「翠平戦」の呼称)で使用されたものです。両校生徒が熱く燃えた歴史あるこの行事は途中二度の中断を挟んで25回続けられ、対戦成績は平沼の12勝13敗でした。
平翠戦優勝旗の写真

文机と画集 戦前の女学生の居室をイメージしてつくられた「花橘の間」です。制服や教材などから当時の文化や精神にふれることができます。1905(明治38)年の生徒の美術作品等があります。

上記で紹介したものはほんの一部です。学校説明会や平沼祭(文化祭)、コミコミスクール、入試説明会等で公開予定ですので是非、本校の歴史に直接触れてみてください。

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