本校所蔵のアルバムより3
大正時代の修学旅行 (神奈川県立高等女学校時代)

大正10年(1921年)~昭和2年(1927年)の修学旅行

写真:強羅公園にて 左写真:大正10(1921)年春季修学旅行
箱根強羅公園 県立高等女学校3年

本校の100年以上にわたる校史を知る上での貴重な資料に毎年発行されてきた文集『花橘』があります。
(第1号は明治43年発刊の『花たちばな』)
大正10年の花橘 第20号の「箱根遠足の記」には次のような記録が残っています。(秋の遠足か)

「箱根遠足の記」
 「箱根の山は天下の険」と歌ひながらも只上はの空にてありし山々を実地踏破して、思ふ様自然に接することの出来る機会がやうやうにして到来した。
 十月六日、未明より起き出て、軽きいでたちに草鞋(わらじ)のはき初めをなし、日頃の望みの第一歩を踏み出したときは、皆様の「いってらっしゃい。」の声も耳に入らぬ程、心が踊っていた。袴を短くはき、白い靴下に白足袋を穿き、草鞋がけの私達一行が停車場指して繰こんで行くのを途行く人々は如何に見たであらう。皆振りかヘリ振りかヘリ見てゐた、かくて六時四〇分の小田原行の列車は勇気満々たる私共をのせて目的地を指して走り出した。(中略)
 小田原駅近くなりし頃、遙か彼方に二子山、鞍掛山、其他の箱根の連峯が雲に包まれて薄藍色に高く聳えているのを望むことが出来た。ああその雄大なる様!私は思わず感歎の声を放った。ああこれより幾分かの後には、あの世に聞えた箱根八里の険を突破するのだ。ああ嬉しい、私の心は又おどり立った。
 八時十五分、汽車は小田原駅についた。「お弁当にお茶サンドウィッチ」とかしましく呼ぶ物売りの声に又旅気分が湧き上がった。(続く)

<大正13(1924)年の学校日誌には以下の記録が残っています。
五月十日 師範四年関西旅行ノ途ニ上ル
五月十四日 師範三年日光旅行ノ途ニ上ル
五月十五日 高女五年日光旅行ノ途ニ上ル
五月十六日 高女四年 静岡方面
高女三年師範二年 箱根方面
二部師範一年高女二年横須賀
高女一年 大磯方面

前年の大正12(1923)年9月1日には関東大震災で校舎が倒壊し、在籍721名中22名が亡くなる惨事を経験しており、退学18名・転学91名等で在籍者も582名にまで減少しています。11月に授業が再開されて半年後に実施された旅行だったようで、親しかった級友を亡くした生徒もいると思われます。
写真:箱根 鞍掛山にて
大正13(1924)年5月箱根修学旅行
鞍掛山頂上にて 県立高女三年師範二年

写真:日光にて 左写真:大正14(1925)年5月日光修学旅行
    女子師範四年

 この日光方面修学旅行記が「花橘」第25号(大正14年7月発行)に掲載されています。部分引用してご紹介致します。
 (前略)気候の良い故か二三の学校の生徒の旅行に行くらしいのが見える。予定は八時の列車だ、然し未だ七時前である、押し合いへし合いどやどやっと七時発の列車に乗り込む、あまりの嬉しさに家を離れる悲しさも懐かしい横濱を離れた淋しさも私達の心からかき消されてゐる。おきまりの汽笛一声で上野を離れた。心は踊った。汽車は何の未練もなく走り出す、さらば横濱よ、さらば家よ、私達は刻一刻と関東平野の奥深く行くのではあるまいか。
 青く茂った木、美しく咲き乱れた花、赤羽を過ぎた頃、美しい流れを見出した、大きいか、小さいか、それは分からない、唯美しいうねりだ、河岸に少しの葦を見る、荒川とか聞く、七時三十分、賑やかな浦和へつく、多くの学校が有るのか沢山の生徒が降りたった、その人々を物珍しげに一人の婦人は眺めてゐた。
 紫の上衣に緑のスカートを着けた朝鮮の婦人である、どこへ行くのだろう、少しの荷物とそして荒縄で縛ったお布団を傍らに置いて故国を離れた淋しさを色に漂わせながら。
 汽車は動き出した、青い青い麦畑の彼方に白い建物がポツンと建ってゐる、たぶん学校だろう。このあたりは全く山は見えない、あこがれてゐた関東平野、それはこんなにも淋しい眺めであったのかしら、(中略)
 『これが利根だ』先生が言はれる。『利根?利根!』あちらからもこちらからも喜びの声が挙がった。岸に立って望んだら向こふが見えないだろうと思われる大きな河.......(後略)

右写真
大正14(1925)年5月静岡方面修学旅行
江尻より三保上陸との題のついた写真 高女4年

同じく「花橘」第25号より
......清水から小蒸気に引かれた大きな和船に乗り移る、私達は初めて舟に乗った様に喜んでゐる。ボーと走り出す途端舟が左右に揺れる。第一声の悲鳴が起こる、風が強い為、私達は真っ青な顔をしてゐたけれども、元気で手を波の間に入れたりしている。前衛中衛後衛とヴァレー式にわかれて半巾(はんはば)流しを始める、終に前衛でぬかし中衛でも後衛でもぬかして半巾は広い海の中に私達より離れて青い中にくっきりと白く浮かび出てゐる。今度は紙流しを始める。七時半頃御穂神社につく.......

写真:静岡三保にて
現在の静岡市清水区江尻より三保の松原方面へ船で渡ったようです。

写真:京都蹴上にて
大正14(1925)年関西修学旅行
京都第一疎水第三トンネル出口付近(蹴上)にて
師範五年
 当時の記録によれば関西方面修学旅行は五月九日に出発して、帰着が五月十七日と書いてあります。

五月九日 汽車にて九時三十分出発
十日 熱田神宮 名古屋城 伊勢神宮
十一日 東大寺、正倉院等
十二日 法隆寺 吉野
十三日 天王寺 大阪城 造幣局
十四日 神戸 須磨 平安神宮 三十三間堂
十五日 本能寺 北野天神 鴨川
十六日 宇治 三井寺 石山寺 帰途
十七日 汽車にて横濱帰着

写真:奈良若草山にて
大正14(1925)年関西方面修学旅行
若草山頂上にて
写真:京都 渡月橋にて
大正14(1925)年関西方面修学旅行
京都渡月橋にて

写真:多摩川にて
昭和2(1927)年一年修学旅行
多摩川河畔にて
写真:横浜磯子にて
昭和2(1927)年
磯子海水浴場にて

修学旅行について

 1903(明治36)年10月、補習科の有志13名が箱根に一泊旅行に出かけたことが「第一回修学旅行」として記録されている。その後、1907(明治40)年の日光旅行を皮切りに、箱根、静岡、関西などへの修学旅行が定着する。
 女学生の宿泊旅行にはまだ抵抗が感じられた時代にあって、思い切った遠方への旅行だった。戦前は上記のように各学年ごとに修学旅行が実施されていた。
 5年生の修学旅行は、1932(昭和7)年から往路の横浜・神戸間に外国航路の客船を使って、神戸・大阪・京都・伊勢を巡る大がかりなものとなった。
 戦後初めての修学旅行は1950(昭和25)年、1965(昭和40)年から1984(昭和59)年まではクラスを解体したコース別(東北・北陸・関西・山陰・南紀・瀬戸内)の旅行が行われた。
 1995(平成7)年からは航空機の利用が始まり、目的地も北海道・沖縄と、遠隔地が主になっていく。
 2008(平成20)年からは海外修学旅行(ハワイ)を実施予定としている。

参考年表

年 号 本校の歩み その頃の日本 その頃の世界
1914(大正3)年 学友会を校友会と改称 対独宣戦(世界大戦に参加) 第一次世界大戦始まる(~1918)
1915(大正4)年 生徒制服が矢絣模様元禄袖に 中国に二十一カ条要求 アインシュタイン一般相対性理論提唱
1923(大正12)年 関東大震災で校舎倒壊
附属小学校は焼失
関東大震災 
虎の門事件
仏・ベルギー軍によるルール占領
ヒットラー、ミュンヘン一揆失敗
1924(大正13)年 同窓会を「真澄会」とする 第二次護憲運動 ドイツ賠償問題でドーズ案
1925(大正14)年 本校への志願倍率4.41倍との記録 治安維持法 普通選挙法公布 ナチス親衛隊設立 中国五・三〇事件
1927(昭和 2)年 女子師範学校が分離
体育奨励会で5年生がファウストを踊る
金融恐慌 第一次山東出兵 日・米・英ジュネーヴ海軍軍縮会議
1928(昭和 3)年 新築校舎落成式 初の普通選挙実施 パリ不戦条約
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