本校所蔵のアルバムより 懐かしの校舎 思い出の写真

校舎の変遷、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)のアルバムより

創立当時の初代校舎
1901年(明治34年)創立当時の校舎
震災前の校舎
関東大震災(1923年 大正12年)前の本校校舎

 1899(明治32)年高等女学校令が制定され、神奈川県にも高等女学校が誕生することになった。校地選定に当たってはさまざまな候補地があげられたが、最終的に、橘樹郡保土ヶ谷町岡野新田の岡野欣之助氏所有地三千坪が選ばれた。この土地は「教育のためなら」という岡野氏の厚意で、寄付により提供された。現在、本校が建っている場所である。県立中学校(現希望ヶ丘高等学校)に遅れること3年、こうして、神奈川県で初めての県立高等女学校が設置を認可された。1900(明治33)年10月10日のことである。

倒壊した校舎  1923(大正12)年9月1日、関東一帯を襲った大地震で、本校校舎も壊滅的打撃を受け、本館は一部を除いて倒壊、1910(明治43)年以来併設されていた付属小学校の校舎は焼失した。当時は2学期の始業が9月6日からであったために学校は夏休み中であったが、教師2名、生徒25名が亡くなり、18名の生徒が退学、91名が転学を余儀なくされた。

 倒壊した校舎の跡地に建てられた仮校舎で授業が再開されたのは11月13日のことだった。
 天井と腰板はボール紙、床板は節穴だらけという劣悪な環境の中で、全国の女学校や卒業生から贈られた教科書を使っての授業が続けられた。
 しかし、これをきっかけに1907(明治40)年以来併設されていた女子師範学校の分離や、近代的設備を誇る新校舎の建設が実現することになった。
 なお、1927(昭和2)年まで本校(神奈川県立高等女学校)に併設されていた小学校教員を養成するための女子師範学校はその後再編され、現在の横浜国立大学教育人間科学部となっている。
バラック建ての仮設校舎
バラック建ての仮設校舎

完成間もない二代目校舎
完成間もない二代目校舎
 震災による校舎倒壊から5年を経た1928(昭和3)年、鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が完成する。
 大理石の円柱に広い玄関、廊下には彫り模様のタイルが敷きつめられ、階段の手摺には校歌の楽譜が透し彫りであしらわれるなど、随所に工夫を凝らした格調高いものだった。
 この校舎は1990(平成2)年まで使用され、60年にわたって数多くの生徒が学んだ校舎となる。
 新校舎完成2年後の1930(昭和5年)、校名が「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改称され、制服もそれまでの着物から洋装に変わった。三代目の制服は、紺のジャンパースカートに白のブラウスのしゃれたスタイルであった。

1929(昭和4)年 昭和天皇行幸記念アルバムより

 1929(昭和4)年4月23日昭和天皇が本校に「行幸」。
 行幸記念体育大会での徒競走やバスケットボールと思われる記録写真。(行幸記念アルバムより)
 この年、アメリカより世界恐慌が始まり、時代は徐々に戦時下への歩みを進めていく。また、この年まで本校が神奈川県立高等女学校の名称で呼ばれていた時代である。
 県立の高等女学校に関しては、1920年代に、本校および平塚高等女学校(現平塚江南高等学校)のほか、厚木高等女学校(現厚木東高等学校)、小田原高等女学校(旧小田原城内高等学校)、横須賀高等女学校(現横須賀大津高等学校)が加わって5校となった。本校の校名が「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改められたのは、中等学校の増加傾向の中で、近い将来に横浜市内でも県立高等女学校の増設が予想されたためである。ちなみに、横浜第二高等女学校は1936(昭和11)年に開校されている(現横浜立野高等学校)。
行幸記念体育大会より
1929(昭和4)行幸記念体育大会の様子

行幸記念体育大会より 行幸記念体育大会より

1930(昭和5)年 創立30周年記念アルバムより

1930(昭和5年)創立30周年祝賀園遊会の様子  1930(昭和5)年、4月に校名を「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改称し、洋服の制服を制定した。
 5月には創立30周年記念式を挙行した。

 左記や下記の創立30周年祝賀園遊会の様子からは、洋装と着物の両様の制服が着用されているのがうかがえる。

校庭でバレーボールをする生徒達
校庭でバレーボールをする生徒達
中央の木造建物は屋内体操場
写真:1930(昭和5)年、創立30周年祝賀園遊会
1930(昭和5)年、創立30周年祝賀園遊会

 1930(昭和5)年に「第一高女」と改称されたころ、全国的に中等学校に進学を希望するする者が増大した。その中で本校には県下各地から優秀な生徒が集まり、厳しい学業が課されただけでなく、一方では様々な行事や生徒の活動が展開され、現在に続く「自由でおおらかな校風」が育まれていった。

 1931(昭和6)年から始まった戦前の名物行事のひとつである「耐久徒歩」の第1回目は学校から戸塚・藤沢を経て鎌倉までの33キロを歩き通した。
 また、現在でも実施されているスキー教室は、長野県の菅平で1935(昭和10)年に始まった。
全校体操
全学年体操の様子
(当時周辺には本校より高い建物はなかった)

参考年表

年 号 本校の歩み その頃の日本 その頃の世界
1900(明治33)年 本校創立「神奈川県高等女学校」
翌年「神奈川県立高等女学校」と改称
1902年日英同盟 1900~01年義和団事件
1903(明治36)年 第一回卒業証書授与式 1904~05年日露戦争 1905年ロシア血の日曜日事件
1923(大正12)年 関東大震災で校舎倒壊 1925年治安維持法公布 1914年~18年第一次世界大戦
1928(昭和3)年 新築校舎落成式 1928年第一回普通選挙 1929年世界恐慌始まる
1930(昭和5)年 「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改称
創立30周年記念式
1931年満州事変 1933年日独国際連盟脱退
1940(昭和15)年 創立40周年 1938年国家総動員法公布 1939~45年第二次世界大戦
1945(昭和20)年 横浜大空襲で本館以外は焼失。
残存校舎は救護病院に当てられる
1945年沖縄戦 広島・長崎に原爆投下される
ポツダム宣言受諾
1945年国際連合発足
1948(昭和23)年 「神奈川県立横浜第一女子高等学校」に改称
通信教育部を併置
1948年東京裁判終わる 1948年第一次中東戦争
1950(昭和25)年 校名を「神奈川県立横浜平沼高等学校」に改称 1951年サンフランシスコ講和会議 1950年朝鮮戦争勃発
2000(平成12)年 創立100周年記念音楽式典開催(みなとみらい大ホール) 1995年阪神淡路大震災
2000年九州・沖縄サミット開催
2001年アメリカで同時多発テロ

※解説文は本校の特色のひとつでもある校史教育の資料「県立高女から横浜平沼へ」~100年の歩み~から抜粋して掲載いたしました。
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